去る🐒2018年7月16日(月)、資料検索の一環で光明寺住職さまよりお話を聞けることとなり、メンバー4名でおじゃまさせていただきました。
簡単に光明寺の歴史を解説します。
養老元年、行基開祖の真言宗寺院として開創。中世には武田軍によって山城へと改築され、三方原の戦で拠点となりました。光明寺はこの時、行基が最初に草庵を開いたとされる現在の場所(天竜区山東)へ一度移転。江戸初期、徳川家康により再び光明山(通称鏡山)へ曹洞宗寺院として戻され、天皇家・徳川家の御祈願所に。昭和6年に光明寺山の寺院が火災で焼失したため、昭和10年頃から再び現在の場所で再建されました。位置関係は地図で確認してください。
光明山へのアクセスは林道です。半端ない狭さと登坂なので、運転に自身が無い方は厳しいかもしれません。江戸初期頃から明治初期頃まで、この山中を通ってかわらけを奉納していたかと思うと、一体加藤輿左衛門常政なる人物は何をそこまで求めていたのか大変気になります。
光明寺にて
現住職さまが市之倉へ遊びに来こられた時、購入された花入れが偶然メンバーのお父さんが作ったものでした。何か縁を感じますね。一通りお話を伺う中では、昭和6年の火災で古文書などはほぼ消失しており、あまり記録は残っていませんが七十五膳神事は現在も続いており、神事の日に再訪問を検討しています。現在は曹洞宗寺院でありながら【神事】として残っているところが、山岳寺院らしさを醸し出しています。(神仏分離をされた現代では【仏事】が一般的な言い方です)
光明寺は奥之院に【摩利支真天】を祀っており、御札などにはイノシシに乗った摩利支真天が描かれています。この絵柄がいつ頃書かれたものなのか、市之倉側からも同様の御札が出てくればもっと繋がりがハッキリしてくると思いますので、古い光明寺の御札をお持ちの方、ご一報下さるとありがたいです。
また光明寺と言えば一本杉から作られた大黒さまが有名です。昭和6年の大火災で敷地内の大木にも火が入り、伐採を余儀なくされた【大黒杉】と呼ばれる大木から削り出されたもの。通常このサイズになると寄せ木(パーツごとに削り出し組み上げる方法)が一般的ですが、一つのブロックから削り出された大黒像としては希な存在です。(それだけにご利益が多そうです)当時の住職明道和尚が西川重五郎翁に相談し、翁からの寄進によって昭和12年に完成し祀られました。仏師は岡田天孝。
光明寺の大黒さまは嘉永五年(1852年)、光明山の大天狗【正一位光明笠鋒坊大権現(こうみょうりゅうほうぼうだいごんげん)】の神託から祀られるようになり、遠州の福の神として武家から厚い信仰を得ていたそうです。(だから開運出世大黒なのかもです)
大黒さまのお守り。歴史背景がしっかり判明してきたら、このお守りもプロデュースしたいです。
下図は光明山にあった頃、火災の時救出されたと思われる鏧子(けいす)。フチに傷がついているので、相当慌てて放り出されたのではないかとは住職さま談。
この日は気温が高く、奥之院まで行くのは(いろいろなモノが)危険だと判断して、望遠レンズで撮影。秋、涼しくなったらまたうかがいます。
光明山遺跡
昭和6年までは光明山に広がっていた光明寺。跡地は整備されてはいますが、アクセスに林道を使うためなかなか大変です。
現光明寺から車で約20分。狭い林道を登っていき、山頂近くから徒歩でアクセス。(5分くらい)徳川家康が築いた石垣が残っており、遺跡感が溢れています。
それぞれの場所で石垣の作りが違うため、行基時代のもの、武田方が築いたもの、徳川が築いたものとバリエーションに富んでいます。その作りを見るだけもそれぞれの時代において、ここがかつて要所であったことがうかがえます。
今後資料を探し、石塔などに市之倉の文字が無いか調べてみようかと思います。
(記事/伊藤 ㋮)