「元和年間に加藤輿左衛門常政が現浜松市天竜区光明山光明寺の七十五膳神事につかわれる【かわらけ(土器)】を奉納しており、記録では明治初め頃まで続いたらしい」という話が発端となりました。
この調査の目的は以下になります。
- 奉納がなぜ明治初期に終わってしまったのか
- 美濃と遠州にどのような繋がりがあったのか
- 可能であれば奉納神事を復活させる
- 調査結果を基に多治見市と浜松市の縁を繋げ、新たなプロダクツを開発
現在既存資料の検索、読みこみ、光明寺および光明寺遺跡への現地視察、年表への落とし込み作業などをしながら、古文書や光明寺七十五膳神事でつかわれた【かわらけ】など、未発見資料を探しています。もし古文書やおふだ、かわらけ(破片でも可)をお持ちの方または持っている方をご存じの場合、イツノクラ・プロジェクトまでご連絡いただけると幸いです。
次回光明寺遺跡視察レポートと現時点の妄想推論を予定。
(記事/伊藤 ㋮)